子午金環
第一節
 山岳を越え、西へ過ぎ去った巨大な球体が、また東の果てから昇ってくる。
 並んで空を巡る太陽とは別に、大地に影を落とす黒い星。
 東から昇り、西へ沈むのは変わらないが、空を横切るその軌道は毎日毎時違うという、惑星ティーリアの双子星。
 この数日の間にふいと、魔都スフィラストゥールの上空を跨ぐようになった黒い球体を仰ぎ見て、アンノウンは両腕を頭上に掲げ、目一杯に胸を逸らせて伸びをする。
「いやー、飲んだ飲んだ」
 もはや、すっかりと街並みに馴染んだ様子で。夜明かしをした酒場前、ギターを脇の壁に立て掛けて、準備運動宜しく腕を振り回している彼に、道行く人が挨拶代わりに軽く手を挙げる。
 双子星に纏わる不穏な話は、およそ街中の知る所ではあるが、スフィラストゥールは他の主要都市に比べて都市圏がかなり広い。そのせいか、アンノウンが主な活動範囲としている――別段、彼が意図しているわけではないが、なんとなく気紛れで――場所は比較的穏やかで、危急を要するらしい事態も、雑談を盛り上げる噂話といった風情だった。
 とはいえ、完全に他人事かといえばそうでもなく。
 息子が、娘が騎士をやっているんだ、とか。
 母親の実家が障壁沿いなんだ、とか。
 友人が砦近くで働いてるんだ、とか……
 そんな、当事者ではないが無関係でもない者達の間には、じわりとした不安の影が漂っている。
 壊れたという守護塔の現物は、先日、ダークネスの手伝いをした時に確認はしたものの……中に登って観光できるわけでもなし、外観が特別芸術的というわけでもなし。一見すると存在感たっぷりに聳え立っている巨大建造物というだけで、何かどう凄いのかいまいちピンと来ないのが、アンノウンの正直な感想だった。
 それでも、酒盛りしたり、飯を奢って貰ったりする度に、『守護塔』やら、『障壁』やらの単語が会話の中に増えていくことから、それが街の人々にとって余程大切なものであろうというのは、感覚的に理解出来る。割とノリで生きているアンノウンには、守護塔の重要性を懇々と説かれるよりも、毎朝傷んだ果物を分けてくれる八百屋のおっさん、酒場で管巻いてるおやじ共、皿洗いのまかないに美味い飯を出してくれる食堂のおかみさん……出会い、知り合った市井の住人から零れる素朴な不安の欠片のほうが、余程感情を刺激した。
 何だかんだで広がった人脈のお陰か、広く浅くではあるが、情報だけはそれなりに集まっている。
「ぼちぼち始めっか」
 傍らのギターを背に担ぎ、いつものスタイルに落ち着くと、アンノウンは飄々とした足取りで何処かへ向かって歩き始める。
 そういやあ、暫く前からあいつの姿見ないな、ふとそんな事を考えながら。

 ……アンノウンの言う『あいつ』こと、ダークネスはというと。
 双子星が都市圏上空を巡るようになってから、彼は防護門――渓谷に据え置かれた砦付近に、活動の中心を移していた。
 日々の営みが続く、平穏な風景とは一変。
 実質的に脅威と相対せねばならぬ砦周囲は、異様な緊張感に包まれている。
 平時でも気が抜けない魔物との戦い。守護塔の障壁に頼れない今、地力しか対処の方法がない手前、普段は凡そ規律を重んじ礼節を失せぬよう努めている騎士団も、ちょっとしたことでいさかいが起こりかねない雰囲気。
 ただでさえ魔物の襲来で気が抜けないのに、これはまた面倒な……と、ダークネスは咥え煙草の隙間から、煙と一緒に細い息を吐き零す。
 実際、機動生命体との共闘についても、騎士団内部で意見が割れているらしかった。平時ならそこまで白熱する事もないのだろうが……双子星の影響による『大侵攻』の懸念もあり、余りの緊張感ゆえか、小さな言い争いが次第に喧々囂々、やがて喧嘩沙汰に発展する事例も見受けられる。
 その度に、いさかいの間に入っては、なんやかんやと仲裁を始めるダークネス。
「喧嘩は後でも出来るだろ。その有り余ってるのは、魔物用に置いとけ」
 なんというか、戦うことを生業にしている奴らが相手だけに、街中の喧嘩仲裁より断然気を使う。
 本題に移る前に疲れちまいそうだ、そんなことを内心で呟きつつ、掴み掛かられて一層乱れた軍服の襟元を、軽く整える。元々着崩している為、傍目には余り変わらないが。
 騎士同士ですら、この有様だというのに……再び零した嘆息と共に、ダークネスが眼鏡越しの視線を巡らせる。
 元々、腕試しの魔物狩りが多いのもスフィラストゥールの特徴。だが……現状は、窮地と称すに相違ない。故に、都市運営部の意向もあって、騎士団は四の五の言わず戦力受け入れを行っており、魔物狩りの数も平時の比ではない。
 ごった返しているのに、言葉少なく。殺気立った者達の無骨な足音が、やけに耳に残る。
 詰め所として解放されている砦内部は……何か取り決めでもあったのか、と疑いたくなる程に、騎士と魔物狩りで、すっぱりと居所が分かれていた。
 本来なら、協力して事に当たるべきなのだが。『防衛』を旨とする騎士とは違い、魔物狩りの多くは『戦功』を優先する傾向にある。微妙に相容れない思想の違い。両者の間にある溝は、物理的な距離感となって、目に見える形で顕現していた。
 この状況が、輪を掛けて騎士達を苛つかせている。不和は勝利の大敵だ。しぶしぶでも互いを協調路線に持っていかねば、街の防衛どころではない。無論、騎士達も頭では判っているはずだが……『魔都の騎士』というプライドもあるのだろうなと、ダークネスは大変歩き易くなっている両者の間の通路を、平然と通り抜けていく。
 俄に慌しくなる詰め所内。魔物襲来の報せに慌しく出撃していく人員と共に、ダークネスもまた漆黒の翼を羽ばたき、砦の上空へと舞い上がる。
 さて、どうしたものか。
 ……そう考えている時点で、既にかなり面倒な問題に首を突っ込んでいるのだが。
 案の定、交じり合う事もなく防護門に展開する騎士と魔物狩りの様子を眼下に、僅かな逡巡を過ぎらせる。

 そんな砦付近の緊迫した雰囲気を肌で感じて、利根川 るり(とねがわ るり)はいつものにこにこした表情を、珍しくきゅっと引き締めていた。
 双子星の軌道と魔物襲来の因果は、スフィラストゥールで活動していれば人々の噂話からも自然と耳に入ってくる。そんな物騒な話を知った以上、危険に晒されるであろう人々を正義感の強いるりが放っておけるはずもない。
 とはいえ、自分はつい先日に街に来たばかりのおのぼりさんだ。先ずは地形を把握しなくてはと、瓦礫を片したり、炊き出しの手伝いをしたりする傍ら、魔都の中を歩き回っていた。
 それにしても広い。想像以上に広い。この砦の近くに来るだけでも、思ったより時間が掛かった。素手による戦いを得意としていることや、ナハリ武術館の門下生として日々鍛錬を重ねてきた甲斐もあり、るりにとって長距離や長時間の移動は別段苦になるものでない。それよりも、目的地に辿り着くだけでこんなに時間が掛かって、こんなに街並みや様子が目まぐるしく移り変わっていくなんて。これが都会……!
 感激半分、緊張半分。いつかは騎士に……そんな将来の展望もあり、世界一と謳われる魔都の騎士らがあの砦の向うで今も人々の為に命を懸けているのだと思うと、胸の奥から言い知れない高揚感が湧いてくる。
 さりとて、いつまでも感動している場合ではない。頑張らなくちゃと、いつもの愛想のいい表情を浮かべると、足早に動き始める。
 防護門のある砦周辺には、流石に人家は殆どなく、騎士宿舎や騎士団本部などの大型建造物が多数を占めていた。騎士団は基本的に『街』が組織する団体である為、これらはいわば公営施設。
 そして、そんな騎士らの便宜を図るため、宿舎周辺には様々な種類の店舗が軒を連ねている。
 食料は勿論、日用品、医療施設、武器防具の修繕、補修の専門店……それから、騎士宿舎とは別の、宿泊施設も。こちらは恐らく、腕試しにやってくる魔物狩りが顧客対象なのだろう。
 街が運営しているのか、自然とこうなったのかは、るりには解らないが。なんにせよ、騎士や魔物狩りを相手に商売している『非戦闘員』が砦の周辺に多く居るのは、確かな事実だった。
 しっかり道を覚えておかなくては。ぐっと拳を握って気合を入れると、疲れ知らずな足取りで、周辺の歩き易く安全な通路を……あ、あれに見えるは、憧れのナハリ武術館総本山!
 砦からは随分離れた位置にあるが、独特の景観を持つ巨大建造物は、遠くからでも一目瞭然。通説によれば、武術館の発祥地は東方大陸。総本山が魔都にある理由は、開祖の戦没地であるとか、重要性を鑑みて東方から移されたとか諸説あるが、そんな由来にあやかってか、武術館の建物は東方大陸の文化を意識した、一種独特な外観をしている事が多かった。そして、大きな支部になるほどその傾向が強く……高層建築の多い魔都の中にあっても、総本山の建物は中々の存在感を放っていた。
「挨拶に行かなくては……!」
 思わずそわそわしてしまいながら、いそいそと武術館へ歩を進めるるり。
 ……と、その道中。
 不意に射線の通った丘陵の上で、悠然とマントをなびかせている人影が。
 間違いない!
 途端に進路変更。一目散に丘へと向かうるり。
 ぱっちりした紫の瞳は一点、銛を手に感慨深げに佇んでいる人物をロック・オン。後ろで結んだえんじの髪と、身に付けている小さな球体のアクセサリを軽快に揺らし、るりは脇目も振らず真っ直ぐに、目当ての人物へと駆け出した。

 黒き巨星が天を巡る。
 丘陵の上では、沙魅仙(しゃみせん)が胸を張り、その様を見つめている。
 吹き下ろす乾いた風に乱れる赤い髪。眼に掛かった金色のメッシュ部分を手で掻きあげ、撫で付けると……彼は、眼下に広がる魔都の街並を、黒い瞳に映し込む。
 始まりの街グリンホーンで得た同志は、計七名。沙魅仙が知る限り、七は幸運を呼ぶ数字。偶然か必然か、この縁起の良さも天の采配に違いない。
 ふと、気付けば丘陵を登ってくる数名の人影が。先頭に居るのは勇魚吠(いさなほえり)だろうか。袖のない着衣から惜しげもなく晒した褐色の腕を、ぶんぶんと振っている様が良く見える。
「ロードはーん、全員集めてきたよー」
「うむ、ご苦労」
 背筋を伸ばして尊大に頷き、家臣――と、疑って止まない賛同者達へと、改めて視線を巡らせる沙魅仙。
 食糧確保や炊き出しなど、一連の活動は一定の成果を挙げていると、沙魅仙は自負している。そろそろ、状況に見合った新たな行動指標を定めるべき時であろう……そんな演説じみた言葉を紡ぎつつ、細身な身体で仁王立ち、精一杯の威厳を放つことも忘れない。
「だが、大事を成すにはまだまだ足りない……と、その前に」
 そこまで言った所で、沙魅仙は愛用の銛『鳴海』で、軽く地を叩く。柄の先端、石突部分が足元の小岩とかち合って、かつん、と小気味よい音を立てた。
「貴公ら七名、七にあやかり、我らの組織の名を『ロードナイツセブン』としよう」
 未だ十名に満たない現状、組織と称するには些か物足りない所だが……
 集まった者の殆どが未来に夢見る若者という事もあってか、『自分達だけの特別な呼称』に七人は満更でない様子。名称がなにやら仰々しいのも、若者心に琴線をくすぐるものがあるのだろう。
 沙魅仙はそんな様子に尊大な頷きを一つして見せると、再び鳴海を打ち鳴らし、皆の注目を集める。
「ナイツも『騎士』とは言うが、志を持って集まってくれた貴公らは貴き想いを持つ志士、『貴志』とも言うべきだろう」
「英雄物語の序盤みたいやぁ。こっから苦難を乗り越えたりしてどんどん盛り上がっていくんよね」
 感慨深げに宣言する沙魅仙に対し、かつて読んだ小説を思い出してか、吠がそんな事を言ったものだから、若者達はすっかりその気になって盛り上がる。
 沙魅仙もまた、若者らの反応を満更でない面持ちで眺めながら。
「貴公らの働きに期待している」
 普段なら少し眉を顰めそうになる尊大な物言いも、一旦盛り上がった若者には些細なことらしく。若き『貴志』らは逆にノリノリで、姿勢を正して沙魅仙に応えて見せる程だった。
 ……が、その時ふと。
 ロードナイツセブン発足に、目出度いなぁ、と拍手を送っていた吠が。
「あたしも入ってるん?」
「うむ。何か問題が?」
「せやったらエイトにならん?」
 途端に、あれっ、と貴志らの頭上にも疑問符が浮ぶ。
 すると、沙魅仙はばつが悪そうに、ちょっぴりわざとらしい大きな咳払いを一つして。
「ロードといえどゲンを担ぐもの。細かいことはよいのだ」
「そかぁ、うん、そやねぇ」
 言葉の意味を咀嚼するように、独白にも似た調子で溢す吠。
 成り行きで群れに紛じったり、一人に戻ったり。普段、大海原で気侭な生活をしている自分の性分を考えるに、別のものに興味を惹かれて、ふらりとロードナイツセブンを離れていく時も来るのではないだろうか。それなら、幸運の七に拘りたい沙魅仙の気持ちも含めて、七人と一人、みたいな数え方で丁度いいんじゃないか。
 ふとそんな気がして、吠は明るい表情を浮かべながら、うんうんと頷いて見せた。
 兎角、再び咳払いを一つ、場を仕切り直す沙魅仙。
「それでは、貴公らは引き続……ん?」
 本題を切り出そうとした所で、俄に途切れる沙魅仙の言葉。
 何か見つけたのだろうか。彼の視線は目の前の自分達でなく、もっと後ろを見ている。
 その事に気付いた吠が、背面を振り返るよりも早く。
 聴こえ始めた軽快な足音が、急激に近づいて……

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